いつもありがとうございます。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
今回は『コラム』についてです。
14.デジタルファーストで考える
まずはデジタルでできないかという発想
コロナ禍でほぼ在宅ワークとなり、大学の講義や政府省庁関連の委員会などもオンラインで参加できるようになったのは嬉しいことです。ただ、講師や委員にはいくばくかの謝礼が支払われるのですが、そのための手続きがとてもアナログで辟易しています。電子メールで申請書のPDFファイルが送られてくるので、それを紙に印刷して、印鑑を押し、郵便で返送しなければなりません。
2020年9月に発足した菅義偉内閣は、国全体のデジタル化を看板政策とし、この動きを加速させるために、デジタル化の司令塔となるデジ タル庁を2021年9月1日に発足させるとの基本的方向性を示しました。そこで最初に話題に上ったのが「脱はんこ」の議論です。 脱はんこ自体は、DXというよりは、物理的な印鑑をデジタル印鑑に置き換える「デジタイゼーション」に過ぎませんが、まずはこれができていなければ契約や承認プロセスを革新するための「デジタライゼーション」も進まないため、 必要な第一歩といえます。
これからは、何事においても「デジタルファースト」で考えることが重要です。たとえば、人と連絡を取るとき、何かモノを買おうとするとき、会社で経費精算を申請するとき、顧客から支払いを受けるとき、顧客にサポートを提供するときなど、何かをしようとしたときに、まずはテクノロジーの活用やオンラインでの実現を考え、どうしてもできない事情があるときだけアナログの手段を使うということです。読者の皆さんの身の回りの生活や仕事のなかにも、デジタル化できることはまだまだたくさんあるのではないでしょうか。(出典:新しいDX戦略 内山悟志 著書)
13.誰もがデジタルに適応するには
年齢や専門知識の有無はあまり気にしないほうが良い
オンライン会議の導入やキャッシュレス決済の普及などを推し進める際に、「高齢者やITに慣れていない人がいるから難しい、止めたほうが良い」 などと考え、そのような人たちに配慮して特別に簡易な方法を検討するといった反応が見られます。たしかに、誰でも使いやすい UX (ユーザーエクスペリエンス) を考慮することは大切ですが、それによってDXにブレーキをかけては本末転倒です。
実際の世の中では次々に新しいモノや新しい使い方が生まれて、人々はそれに適応して暮らしています。たとえば、お年寄りであっても、ITが苦手な人であっても、今ではみんな駅の改札をカードやスマートフォンをかざして通過しています。本当に必要なものであれば、新しいモノや使い方は自然に浸透していくのです。
アメリカの社会学者エヴェリット・ロジャースが提唱した「イノベーター理論」でもいわれているように、 新しいものに対しては、イノベー ター (革新者)、 アーリーアダプター (初期採用 者)、アーリーマジョリティ (前期追随者)、レイ トマジョリティ (後期追随者) 、ラガード (遅滞者)という層が、 それぞれ一定の割合で存在します。レイトマジョリティやラガードに気を遣いすぎているとDXが一向に進みません。DXを進める際に重要なのは、こうした人々のためにゆっくり進めたり、彼らに特別に簡易な方法を提供しようとして多くの時間や労力を費やしたりしないことです。むしろ、このような人々に「触ってみたい」「使ってみたい」と思ってもらうことが重要です。そのためには、アーリアダプター やアーリーマジョリティに向けて早期に提供し、継続的に良くしていくことで、必要性や便利さを認知していってもらうことが早道です。そのように継続的に良くしていくことで、誰もが使いやすい、身近なものになっていくはずです。(出典:新しいDX戦略 内山悟志 著書)
12.こども火の用心
作詞 豊島 宗弘
作曲 中山晋平
編曲 飯田 信夫
一、 大寒小寒のからっ風
冬がきたきた冬がきた
たき火に火あそびお姫達に火ばち
火事はこわいぞ火の用心
二、お馬やにわとりうしうさぎ
みんなおうちのお友達
けがなどないようよく気をつけて
いつも忘れぬ火の用心
三、しげった野山は日本の
あれはお国の宝もの
山火事の火事も小さい火から
心許すな火の用心
四、さあさ日本の子供達
力合わせて手を組んで
いこうよつくろよたたえて富んだ
火事のない国強い国(出典:高岡消防団のあゆみ)
メモ(良い歌です)
みなさんは歌えますか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
11.女性の服装革命となった白木屋の火事
白木屋の火災が女性に洋服を普及させるとともに、 下着の着用をひろめたことは世上宣伝されているとこ ろである。震災後婦人の洋服着用はふえつつあったとはいえ、白木屋の店員の多くは和服に上っ張り姿であ った。だが火災の場合、和服ではどうしても敏速な行動がとれず、救助袋で避難する場合、両足で袋を突っ張らなければならなかったために、躊躇する店員もいた。また反物をローブがわりにして降りようとすると、 その下にはヤジ馬が大勢騒いでおり、火事場風に裾があられもない姿をさらすことを恥じた若い女性のこととて、思わず片手で裾を押えたりしたため手が緩んで墜落し惨事をまいた者もいた。センセーショナルに報道されたこのニュースは、女性に下着の必要性を認めさせはしたが、和服の下にズロースをはくことは不便であったので、実際には外出時にはく程度の普及率であった。(出典:高岡消防団のあゆみ)
メモ(実際の火災で改めて問題が発見できることがありました)
みなさんはこのニュースを知っていますか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
10.望楼(火の見櫓)の変遷
望楼は元来火の見櫓と呼ばれ、万治元年(一六五八) 江戸に定火消が設けられ火消屋敷に建てられたのが始まりで、この火の見櫓の高さは五丈前後(一五メートル前後) 周囲のしとみは素木生渋塗りであった。その他の大名屋敷や町の各木戸に設けられた火の見櫓はすべて黒塗り で、高さも定火消のものより低く、主に町方の櫓の脚周囲を囲うことが許されなかった。また、大名火消でも火の見櫓を建てられるのは原則として八万石以上の大名に限られ、定火消以外の櫓は江戸城に面す側を開放してはならないなど、いろいろな制限があった。町方における火の見櫓は享保年間(一七一六~三六)に十町に一ヵ所ずつ建てられ、櫓のない町には自身番(町の自警組織の屯所)の上に、半鐘を吊しただけの火の見ばしごが建てられた。一方、常火消の櫓には大きな太鼓と半鐘を設け常時二人の同心が見張番として監視にあたった。これに対して、大名火消や町火消の櫓には見張番を置かず、大名火消の櫓には板木が、町火消の櫓には半鐘が設けてあった。この半鐘の使用に際しても厳しい制限があり定火消が太鼓を鳴らさない限り、他の櫓が発見しても半鐘などをたたくことは許されなかった。 明治に入ってからは、維新の改革により大名火消は廃止され、これらの火の見櫓の多くは廃止されたり取り壊されたりしたが、町火消はそのまま消防組に編成がえになり、大名火消などの火の見櫓のいくつかはそのまま消防組によって使用されることとなった。(出典:高岡消防団のあゆみ)
メモ(上下関係が厳しいですね)
みなさんは火の見櫓に登ったことはありますか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
9.消防出初式の由来
今日、新春恒例行事の一つに数えられている出初式の起源は、遠く万治二年(一六五九)にさかのぼる。明暦三年(一六五七)の大火を契機として、万治二 年一月四日、時の老中稲葉伊予守正則が定火消総勢 四隊を率いて、上野東照宮前で「出初」を行って気勢 をあげたことが、当時焦土の中での苦しい復興作業に 疲れややもすれば絶望的な状態にあった江戸市民に 大きな希望と信頼を与えた。これが契機となって、定火消の「初」は、毎年一月四日上野東照宮で行われ るようになり、次第に儀式化され、恒例行事となって今日の出初式に受け継がれているものである。また、定火消の誕生から約六〇年後の享保三年(一七一八)に設置された町火消にも、定火消の「出初」 をまねる慣わしが伝わり、定火消のそれと区別して「初出」はつでと称して、一月四日木遣り歌をうたいはしご乗りなどをそれぞれの組の町内で行った。(出典:高岡消防のあゆみ)
メモ(当時の困窮した生活がうかがえます)
みなさんは稲葉伊予守正則を知っていますか。
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
8.消防団令の交付
昭和二二年四月三〇日、勅令第一八五号として「消防団令」が公布され、即日施行されるとともに警防団令が廃止され、常備消防が置かれた。昭和二三年三月七日、消防組織法の施行に伴い、三月二四日政令をもって「消防団令」が公布されたので、昭和二二年勅令第一八五号による消防団令は廃止された。この法律では、警察署にあった消防団に対する指揮監督権を市町村長、消防長又は消防署長に移したので、警察から分離独立し、市町村消防として消防機能の強化拡充が図られ たのである。(出典:福野町消防のあゆみ)
メモ(消防団は全国で同じ年にできていたんですね)
みなさんは消防団令についてどう思いますか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
7.消防の記念日
一月二六日 ・・・「文化財防火デー」昭和二四年(一九四九年)一月二六日に奈良・法隆寺金堂が焼失したこと。また例年の時季は火事が多いことから、昭和三〇年に制定されました。この日を中心として全国で 文化財防火訓練が行われます。
三月七日 ・・・「消防記念日」消防行政が市町村の事務であることを義務付けた「消防組織法」が施行されたのが昭和二三年三月七日であることから、昭和二五年に制定されました。市町村消防の誕生日であ ると言われています。
九月一日・・・「防災の日」地震や台風・豪雨といった自然災害についての認識を深めるために伊勢湾台風の翌年の昭和三五年(一九六〇年)に制定されました。また、この日の前後八月三〇日~九月五日の一週間が昭和五七年に「防災週間」とされました。ちなみに、 九月一日は大正一二年 (一九二三)に関東大震災が発生した日です。
九月九日・・・「救急の日」救急医療・救急業務に対する国民の正しい理解と認識を深めること。また救急業務に従事するものの意識を図るために、昭和五七年(一九八二年)に制定されました。 この日を含む一週間を「救急医療週間」として、 消防機関や保健所・医師会などが中心になって応急手当の講習会などをおこなっています。
一一月九日 ・・・「一一九番の日」火事や消火や救急・救助など市民生活に密着している消防行政に対する理解を深めるとともに、防火・防災意識の高揚を図る目的で昭和六二年(一九八七年)に制定されました。この日は、「秋の全国火災予防運動」の初日に当たります。(出典:福野町消防のあゆみ)
メモ(こんなにも多いとは知りませんでした)
みなさんは記念日についていくつ知っていましたか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
6.火の用心のいわれ
天正一二年(一五八四) 徳川家康と豊臣秀吉が小牧山(今の愛知県)で戦った時、家康の家来であった本多作左衛門が、国元の妻に送った「一筆啓上火の用心おせん泣かすな馬肥やせ」という便りからといわれる簡易な文の中に必要ななことをすべて盛り込んだ名文といわれるのが「火の用心」のいわれといわれています。
戦塵の中にあっても留守宅の火事が何より心配だったという当時の人の火にたいする気の使いようがよくうかがえます。(出典:福野町消防のあゆみ)
メモ(火災は良いことがないと思います)
みなさんは火の用心していますか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
5.消防団章の意味するもの
消防団員の制帽章をはじめ、階級章やボタンの中に取り入れられている消防団章があります。桜の花を使用しているのは、桜の花が日本の象徴であり、郷土愛護の精神を表したものであるとともに、桜の花のように潔しと言う心意気を表したものであると言われております。花の中央にあるY形章は、消防団が警察機構に組み込まれる以前、消防組と呼ばれた時代の記章と言われており、その形は江戸時代、町火消しが標とした纏を上方から見た形、また、 町火消しが破壊器具として用いた刺股(さすまた)の形などを図案化したもの、或いは、輸入した消防自動車についていたマーク等と諸説があり明確にはされていません。(昭和二二年一二月二日制定) ちなみに消防職員の制帽章をはじめ、階級章やボタンの中に取り入れられている消防章は、雪の結晶の拡大図を基礎とし、これに日章を中心として水管、管そう、それに筒先から放出する水柱を配したものなのです。雪の結晶は、水、団結及び純潔を意味し、 消防職員の性状を表しています。水管、管そう、そして水栓、消防の任務を完遂する機械と水を表し、 日章はもちろん消防のありかた、すなわち、住民の太陽でありたいという願いを表しています。(昭和二三年三月七日制定)(出典:福野町消防のあゆみ)
メモ(消防職員は真面目な方が多い理由が分かります)
みなさんは消防団章を見かけたら意味を思い出してください。
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
4.消防出初式のはじまり
万治二年(一六五九年-四代将軍家綱の時代) 一月四日、上野東照宮の前で「定火消」の 顔見せの儀式が行われました。これが出初式のはじまりとなり、享保四年(一七一九年-江戸南町奉行大岡越前守の時代) 「町火消」がこれにならって「初出」と呼ぶ儀式を行う事に なりました。明治の時代になり、同八年一月四日以降、町火消を組織替えした消防組に引継がれ、それぞれの技を披露し、消防の心意気を示すことが定着しました。江戸では、大正四年までは毎年一月四日実施されていましたが、大正五年からは一月六日 に実施されることになり、これが全国に波及したものです。放水は、江戸時代の町火消いろは四八組と火消加賀鳶の伝統を今に伝えるもので、福野町消防団では梯子のぼりがはじめて行われた昭和二五年頃から消防の気高揚のため消防出初式の寒風肌さす雪中に於いて、管そう持ちは真っ裸となり五台の放口より五色の水泡を放ちまた二間梯子による梯子登り、仰向大の字は共にその技の円熟で県下唯一のものである と喧伝されたのが、福野町消防団の裸放水のはじまりであります。 その後、火災のないように、福野町民皆様の安全を祈りつつ福野火消の勇壮果敢な心意気を披露するように毎年おこなわれて現在に至っているものであります。(出典:福野町消防のあゆみ)
メモ(出初式は消火能力のお披露目会だと思います)
みなさんは出初式をどう思いますか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
3.刺子法被のはじまり
江戸時代には火事装束と呼ばれるものを用いていました。この装束は、明暦三(一六五七) 年の大火後に生まれたものでした。このとき木綿羽織の武家の侍従たちは落ちてくる火の粉を払う事さえ大変でしたが、革羽織を着ていた大名は、火の粉に焼ける心配もなかったので す。これが契機となって、やがては火事羽織と呼ばれる火事装束が誕生することになったの です。一方、町火消火事装束は、木綿製の長半天や法被(はっぴ)が用いられていました。草履(ぞうり) ばきのままではける刺子の股引に、ひざ下までの刺子半天を着込み、頭には大き猫頭巾を被りなり、手には親指だけが分かれる長めの手袋を、足にはコハゼのない足袋(コ ハゼは熱くなるので付けなかった)を履いたのです。火事装束に関連して、いろいろな呼び名があります。 火消の半天は、半(絆・袢)纏とも 書き、しばしば法被と混同されます。 一般に、 半天は江戸のものであって、法被は上方のも のといわれていますが、両者の違いは次のようです。
半天・・丈短く、 袖短く、袖口小さく、紐なし、反さないで着る。
法被・・丈長く、脇あき、広裾、袖長く、襟紐あり、襟を反して着る 。
刺子とは布地を細かく、いわゆる雑巾刺しに縫ったものでつくった衣服の呼び名で、江戸時代に使われだし、防火服を代表するものでした。 防火衣服としての刺子は、木綿製の布地を二重三重に重ね合わせてつくられていますから、 吸水性に富んでいます。 乾いたままでは火事場の熱を多く吸収してしまうので、火事場に赴く時には、頭から水をかぶって出場するため、水を含んだ刺子は相当の重量となり、迅速に活動することはできなかったようです。(出典:消防雑学辞典)
メモ(自宅に刺子があります)
みなさんは刺子を着たことはありますか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
2.消防ポンプのうつり変わり
日本でのポンプの始まりは今から約二七〇年前 、享保三年(一九一八年)の手突き木製ポンプ、いわゆる水鉄砲です。しかし、水量もわずかでさしたる効果がなく消防活動の主役は、鳶口などで建物を引き倒して延焼を止める破壊消防と手桶リレーを大勢で行う注水消火でした。その後、宝暦四年(一七五四年)には、両側に人手を分け腕木をシーソー風にお互いに し下げる竜吐水(木製腕カ用ポンプ)が発明されましたが、放水が断続的になるため、これも飛火を消すのに役立つ程度で、依然としてリレー式注水消火と破壊消防が主力でした。弘三年(一八四六年)には久留米藩の田中久重が竜吐水に空気室を設け、放水を断続的にできる画期的な雲竜水を発明しました。
その後明治三年(一八七〇年)に、初めてイギリスから蒸気ポンプを輸入しましたが、 残念ながら道路が狭くて活用なりませんでした。また、これと同時に輸入された 「馬引腕用ポンプ」は、ポンプの中央にあるタコの頭のような空気室の圧力で強力に放水できました。吸水管を持つ自己吸水機能もあって竜吐水のように多くの人手と大水槽が必要でなかったの で好評だったそうですが、高価なため竜吐水と併用する時代が続きました。明治一七年(一八八四年)に神奈川県がイギリス製蒸気ポンプを購入。その性能は毎分一六〇〇リットル、放水距離は四七メートルと驚くべき威力でした。
そこで、翌年には東京で二台、大阪で一台、購入され拠点となる消防署に配置されました。この強力な蒸気ポンプはいち早くに到着しても、蒸気が上がるまでに二十分~三十分もかかる厄介な面もありましたが、長時間放水が可能なことと水運びのこの人手がいらないことなどの利点も多くありま した。人力消防から機械消防への第一歩といえるでしょう。
そして、大正三年(一九一四年)に輸入された「消防ポンプ」は走行用のガソリンエンをポンプに切り替えて運転するもので、その構造は現在の消防車とほぼ同じ、放水性能は毎分二三〇〇リットルそして、五〇〇リットルの水槽を持つ高性能なものでした。蒸気が上がらないと放水できなかった蒸気ポンプに比べこの自動車ポンプはすぐに放水が可能で大きな威力を発揮しました。その後、外国製の自動車に国産のポンプを搭載したものを経て、昭和一四年(一九三九年)には純国産の消防ポンプ車の第一号が完成し、現在に至っています。(出典:福野町消防のあゆみ)
メモ(すぐにガソリンエンジン式になったわけではなかったんですね)
みなさんは消防ポンプについてどう思いますか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。
1.消防纏(まとい)
町火消が組の目印(シンボル)として用いしたのが纏です。纏はもともと群雄割拠の戦国時代に、戦場で敵味方の目印として用いたもので、的率(まとい)あるいは馬印(うまじるし)と称していました。江戸時代に入り太平の世が続くと、武家の的率は使われなくなり、これに代わって火消が火災現場で用いる標具となりました。この纏を初めて使ったのは、大名火消だといわれていますが、常火消の消防屯所では玄関敷居台の右わきに定紋をつけた銀箔地の纏を飾り、厳めしい火事装束に身を固めた侍たちが待機していたということです。この纏が、火消にとってどれほど重要なものであったかは、天下に名高い加賀鳶の喧嘩の様子によって知ることができます。
今日見られるような形の纏になったのは、享保十五年(一七三〇)のことで、当時纏の馬簾には、今日のような黒線は入っていませんでした。(ただし、一般の町火消と区別するため、上野寛永寺に火事が起こった際に駆けつける「わ組」と「る組」の馬簾には一本、湯島聖堂に火災が起こった際に駆けつける「か組」の馬籠には二本の黒線が入っていました。)纏の標識部を陀志(だし)と呼んでいますが、これらはそれぞれの組の土地に縁のあるものや、大名の紋所などをデザイン化したものが多くあります。すべての纏の馬簾に、黒線が入れられるようになったのは、明治五年(一八七二)に町火消が消防組と改称されたときからで、受持区域を一定の区域に区切って線を入れました。当時は一本から六本までの黒線でした。(出典:福野消防のあゆみ五十五周年)
メモ(加賀鳶は消防と関係があるとは知りませんでした)
みなさんは纏を持ったことはありますか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。