いつもありがとうございます。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
今回は『小矢部市消防団のあゆみ』についてです。
藩制時代の火消し
慶長十四年(一六〇九)三月の富山の火事は稀にみる大火であった。また明暦三年、江戸に大火があり、火に対する諸侯の関心を深めた。同年、加賀藩主前田利常は領内の町ごとに町火消をおいた。今石動の火消組は町奉行所を中心とした御旅屋(後の御本陣)、藩倉の防火が主であった。(出典:小矢部市史)
今石動奉行と火の用心
寛文八年(一六六八) 防火につき今石動町奉行篠島豊前清次から町年寄・肝煎・算用聞・組合頭あて「火の用心ならびに火事のときのこと」について厳重な通達をした。町民は火の用心を油断なく行ってきたが、消防設備の不完全なころとて、たびたび大火・ボヤがあった。さらに元禄五年(一六九二) 二月二十二日、同じく町奉行から二十一項目にわ たって「今石動町火の用心ならびに火事のときのこと」について重ねての通達が出た。
町中の者は常に火の用心をし、昼夜火の番を怠らないこと。ことに殿様、他国の大名が往来のときは念を入れること。大風の折の心構え、付火のこと、取灰のこと、火消道具・たばこ火・火縄・水溜桶などのこと。亭主番・夜番・火の番のとるべき処置。出火の際の部署については御旅屋・御蔵の警備あたる町内、火事場にかけつける町内。なお、町内に残留する者火元の荷物のこと、火事場泥棒のこと。
その翌日、福町村・埴生村・上野村・畠中村に火事が発生したときの部署と処置、棒杖・鳶口の取り扱いなどについての通達が追加されたが、 消火設備としては、天水桶・手桶・水溜桶・梯子・鳶口・さす又、あるいは小川を せきとめて水溜りを作ることぐらいであった。一度出火すると大事に至ることは必然であったので火事の早期発見に留意し、火の番を巡回させて早期発見に多大の努力を傾注した。(出典:小矢部市史)
火事の制札
正徳元年(一七一一)五月、今石動町奉行所から出された火災についてつぎの制札がでた。
一、火付けをした者を知ったら届け出よ もし、かくしたら、罪は重いぞ たとい同類であっても、申し出た者は、罪を許し、褒美を下さる
一、火をつける者をみつけたらこれを捕らえて申し出よ 見のがしてはならない
一、火事のおりは槍や刀類をぬき身にしてはいけない
一、火事場その外の所で、金銀を拾ったら、代官・地頭へ持参せよもし隠しおいて、ほかから申出たときは罪は重い たとえ同類であっても申し出たものは罪はゆるされ、御褒美を下さる この条項をよく守り、そむいたら、罰を科する
天保十年(一八三九)に「火事これある節の取り決め」を、各十村が申し合わせた。これは各組の町方・在方の消防設備などの運営制度を定めたものである。設備は主として町方であったが、費用は住民に負担させた。火消道具などは肝煎や組合頭があずかった。これより先、享保十四年(一七二九)今石動町奉行所備え付けの火消道具は、梯子三挺・水桶三十・団扇二十本であったが、これを山畠の者へ配分して非常の場合にそなえていた。これらは、元禄年間における方法と同様、町奉行が指揮して藩倉の防火に重点をおいた。
御蔵所や町方について、天保のころの火消組で定められた消火の受持は、次のようであった。
一、津沢-糸岡組・蟹谷組・野尻組
一、戸出-若林組・般若組・国吉組
一、小矢部福町-糸岡組・五位組
一、今石動-宮島組・蟹谷組(出典:千葉家文書)
町内の目印
文政二年(一八一九)、今石動町会所から「出火の節の心得」についての申し合わせ事項が、加賀藩公事場奉行御用人加人宛に報告された。町々に目印を決めて非常の際に備え、協力体制を固めた。
火消人足二十人を一組として鳶口・かけや・梯子・水桶などの諸道具を持たせ、組合頭が付きそい、定めの部署につき、あるいは町役人の指示に応じた。後谷村・福町村・小矢部村・畠中村などの出火には、各町の担当区分についてつぎのように明示した。それは御旅屋御蔵に詰める町、火事場にかけつける町、南上野や川原町の木戸境に詰める町、(火勢に応じて待機する)、埴生八幡詰めの町のことなど、火災に対する事前の慎重さが知れる。目印と町役人支配下の町内は上表のとおりであった。
人的・物的に莫大な被害を受けた寛政の大火(一七九〇)以来、火勢のおそろしさは今石動の町民の心の底まで焼きついた。時代の流れとともに、町役人の支配から民間自主的な消防に移り変わっていった。明治維新後の火消しは、全く指揮機関を失ったが、町民は在来の伝統をうけて寸時も防火を忘れなかった。火消組時代と同じように駆け付け人夫と称し、非常の際は以前と変わらない活動を続け、町民の生命・財産を守り、消火につとめてきた。(出典:小矢部市史)
民間消防組
統率機関を失ったため、しばらくの間は消防行政上に空白があった。火災に際しても、まちまちの行動に出て統制を欠いたので、民間の義侠的考えから消防組が生まれた。小矢部川岸に、藩制時代から皮製の消防衣をつけ、活動した者がおり、川岸者と呼ばれた。江戸火消の気魂、加賀鳶の神髄を発揮した反面、勇にはやることもあった。明治三年、今石動の住人で頼る義侠心に富んだ各力行司の木村孫三郎は、消防の組織を考え、部屋の力士七十人余りで消防組をつくった。四年には組員百二十人の消防組をつくって活躍し、川岸者の威勢を殺いだ。当時の区長は大いに喜び力人世頭組と命名した。(出典:小矢部市史)
若林消防の変遷
若林村の誕生
明治二二年三月富山県令三十七号市町村制施行により、若林村が誕生し、初代村長に長沢文格が就任した。なお、若林村の村名は、狐島、西中、下中が属していた若林郷からとられたものである。初めての村議会で村域が次のように定められた。
一、本村は町村制第六十四条により、処務便宜のためこれを六区に分かち区ごとに区長及びその代理者を各一名置く。
一、その区域は次の通り。第一区 大字狐島村、第二区 大字西中村、第三区 大字金屋本江村、第四区 大字下中村、第五区大字砂田村、第六区 大字水牧村。
昭和九年六月一日若林村大字砂田村は、大字下中村と合併した。
若林消防組の発足
大正元年七月三十一日若林村水牧一部落だけの組織であったが私設若林消防組(初代組頭高澤治作)として創設した。消防組の組織は、組頭一人、小頭二人、係長三人機械係、吸水係、会計係)及び消防手三十人で、予算額は、五拾参圓参拾銭であった。
水牧地区史には、石動町 (四組)、埴生 (二組) に続いて組織され、当時、若林消防組は村部近郊では嚆矢で、腕力ポンプに必需品一揃えを完備し、近町近村の出火は勿論これを最小限に食い止めた。
活躍ぶりは、実に義侠的消防精神の発揚に他 ならず感謝せねばならぬと記述されている。大正五年二月若林消防組は、水牧比叡神社に狛犬を奉納した。
二狛犬の献上は消防推進活動への祈願に併せ報恩感謝を念じて産土神へ奉納されたものである。
碑文には、若林消防組組頭高澤治作、小頭四人、会計二人、係長四人、消防手二十三人合計三十四人及び由来が刻されている。 (若林のいしぶみ参照)
警鐘(半鐘)
昭和六年九月火の見櫓に吊り下げられた警鐘の打ち数は、 富山県消防組施行細則(県令第三四号)により定められたが、昭和十二年六月内務省は各県に通達を出し、県令によって全国統一の打ちならし数が決められた。 その後幾度か改正され現在は、消防法施行規則第三四条に次のとおり定められている。水牧消防隊屯所内、金屋本江消防隊屯所内、西中消防隊屯所軒下、下中消防隊屯所横柱。
消防信号(火災信号)
一、近火信号(連点)●-●-●-●-●消防屯所から約八〇〇m以内。
一、出場信号(三点)●-●-● ●-●-●署所団出場区域以内。
一、応援信号(二点)●-● ●-● ●-●署所団特命応援出場のとき。
一、報知信号(一点)● ● ● ● ●出場区域外の火災を認知したとき。
一、鎮火信号 (一点と二点との斑打)● ●-● ● ●-●消防信号(火災警報信号)。
一、火災警報発令信号(一点と四点との斑打)● ●-●-●-● ● ●-●-●-●
一、火災警報解除信号 (一点二個と二点との斑打)● ● ●-● ● ● ●-●
若林消防のいしぶみ
一、比叡神社 (水牧村)大正五年二月若林消防組は、水牧村比叡神社に消防推進活動への祈願に併せて、報恩感謝を念じて産土神へ狛犬を献上した。
当時、水牧消防組は「若林消防組」の揮毫から窺えるように若林のそれを代表していた。
狛犬の献上は消防推進活動への祈願に併せて、報恩感謝を念じて産土神へ奉納されたものである。水牧消防組の歴史は古く、 石動町(四組)埴生(二組)に続いて大正元年水牧消防組が組織された。
村部近郷では、水牧が嚆矢で若林では第一部に組織した。初代組頭は、高澤治作氏。 公設の腕力ポンプに必需品一揃えを完備し、近郊町村の出火を最小限に食い止めた。(村史より) 村人を始め故人の消防に対する関心の高さがわかる。 (若林地区のいしぶみ)
参議院議小矢部市消防出初式平成24年1月小矢部市消防出初式若林っ子まとい隊感謝状受賞
二、白山比咩能神社
(金屋本江村)昭和十一年 十月若林消防組第三部金屋本江支部は、金屋本江村の白山比咩能神社に結成十周年記念として元消防団員、現消防団員狛犬を奉納した。
三、消防神社 (小矢部市城山公園・消防山)
昭和三十年七月 消防山に「合併記念郷土之護」の碑を建立した。これは昭和二十九年の第一次町村合併に伴い、石動町、小撫村、宮島村、荒川村、若林村、正得村、松沢村、 埴生村、南谷村、北蟹谷村の十ヶ町村の消防団も合併して郷土の団結と発展を祈念して建之した。
碑文
若林分団分団長 谷崎正吉消防手柴田秀夫部長佐野友信(分団長代理)宮田真一田屋良信部長中西茂 中村 友次太田 出合 忠雄政市班長石築
清作高沢 正次高沢真雄遠藤 定俊中川利弘佐野 幸二砂田 豊一 中村山田 勇作消防手健三砂田 俊夫槻尾喜雄出合 忠一有田理俊永山 長進黒田
政一山木 良進岩村昭和三十年七月建之章進
「合併記念 郷土之碑」
昭和四三年六月十五日 石動町消防団は、消防山に「招魂碑之由」の碑を建立した。大型の纏型招魂碑が建立されたがその由来の説明が無かったことから昭和四十三年消防神社境内の整備を機に由来碑を建立した。
(表面)
招魂碑/由来
石動消防組は大正十年六月先輩組員の 輝かしき功績を顕彰して其の霊を慰めるとともに組員相互の親睦を計る目的を以って石動纏保会を組織し従前各組合員の功績を残す招魂碑を建立するとともに消防精神を象徴する鋳鉄製纏形の碑を建立して毎年招魂祭を執行した。
然るに太平洋戦争の激化に伴い昭和十八年国の要請に基き供出し木製品を以ってこれに充つ。その後市制がしかれ小矢部市消防団之を継承し毎年招魂祭を執行する。昭和四十三年三月自治体消防制度二十周年記念事業として纏形の碑を鋳銅製に復元しその環境を美化整備し て面目を一新し六月十五日竣工した。 (裏面)
小矢部市消防団長斉田実以下十三名の幹部名が刻されている。 その内、当市消防団分団長谷崎正吉の刻がある。
自治体消防二十周年記念 防災之塔
台体消防二十周年記念 「防災之塔」
昭和四十三年三月七日 日本消防協会天川島正次
昭和四三年三月七日小矢部市消防団は消防山に自治体消防二十周年記念「防災の塔」の碑を建之した。これは消防職員の名を刻し全市域の安全を祈念して建立した。
碑文
第八分団(若林) 分団長谷崎正吉副分団長宮田真一部長中西茂中村友次班長山田勇作高沢真雄中川利弘砂田豊一団員槻尾喜雄有田理俊黒田 政一山木良進岩村章柴田秀夫田屋良信太田政市出合忠雄高沢正次遠藤佐野幸二定俊砂田俊夫出合忠一永山長進宮田義之槻尾洋二柴田諒一同 同(出典:若林消防100年のあゆみ)
座談会
場所 若林公民館 ホール
日時 平成二十四年六月二十九日(金) 午後七時から午後八時三十分まで
竹越
若林消防の百周年記念誌編纂にあたり、地区の消防の歴史を顧みて社会の変化に即応した「若林消防」を目指すということで、本日は、消防に入団当時のこと、大きな火災のことなど記憶に残っていることをお話願います。また、消防団員確保のことや目指す消防など将来の夢なども語っていただければありがたいです。
佐野
消防ポンプ運転をする者が不足していたので、自動車免許を持っている私に「運転手が都合の悪いときだけでよい」 という条件で誘いがあり入団した。
篠原
下中に欠員が生じたので「入らないか」との誘いを受け入団した。その後、消防ポンプ自動車運転を三~四年担当、 下中の班長を行い順番にあがり分団長を二年間した。
高沢
水牧に欠員ができたので「入らないか」との誘いを受け入団した。 操法大会の練習でホース巻きでも出て来いと言われ、ホース巻きは大変な作業であった。 それならばと「ホースを巻く機械」を考案し製作した。使ってみると上出来なの で、ほかの消防隊の分も製作し配布 した機械は、現在も隊員に喜ばれ大活躍している。

竹越
「消防に入らないか」との誘いを受け、いやいや入団した時代であったのか。
篠原
当時の入団は、いやいやではなかった。 声を掛けてくれるのを待っていた時代であった。 (元分団長全員声かけを待っていたと同調されていた。)
中島
消防団に入団出来る事は、名誉なことで俗に言ういい家のあんちゃん(長男)でなければ出来なかったものである。
高沢
私もそう聞いている。
佐野
いまでも埴生では、お嫁さんがもらえなければ消防団に入れば良いと云われている。お嫁さんを斡旋していた。
佐野
「七人の侍」などと云われたが、今となっては消防の精神が発揮されてよかったと思っている。水牧団地に来て九年になるが町では消防に誘われることは無かった。団地では入団するのが既定概念であり、 体協と同時に誘われたので入団した。一年程経って若い人との交流が出来たので良かったと思っている。 新しく団地に入って来た人には、入団してもらっているので今でも消防隊は二十五人満杯で、行事への参加率もよく 二十~四十歳までの若者の交流の場となっている。(出典:若林消防100年のあゆみ)
メモ(当時から早期発見に多大な注力をしていました)
みなさんは早期発見を心掛けていることはありますか?
では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。