大門町消防団のあゆみ

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今回は『大門町消防団のあゆみ』についてです。(射水市/住まい・暮らし/安全な暮らし/消防/消防団)

1.大門分団(第一分団)

大門町藩制時代には「町火消」があったと思われる。町には明治二年(一八六九) 三月一九日と同三九年 (一九〇六)に大火があった。明治七年にすでに「火消組」があった(富山県消防沿革史)。たぶん、藩政時代の町火消の呼び名の名残りと思われる。
明治一八年(一八八五)三月に大門町代坂井理右衛門から、ときの富山県令国重正文宛に消防組設立を届出ている(坂井家文書)
大門町消防組織の初めである。当時「大若組」と称していたらしいが、のちに「大門」と 改めている。人員は組頭を含めて一七人、消火器は中型の竜水・纏・大水桶・梯子・鳶口などが設備されていた。
大門のほかに、川原町を中心とする大川組があり、「大川組」 名入りの刺子絆てん 、同頭巾、股引などの火消装束と弓張提灯が残っている。明治二七年(一八九四)「公設消防設置区域」となったので、従前の大川大門 「大門」となったのは、明治三二年(一八九九) 八月と伝えられている。組織人員は組頭以下三三名( 組頭一・小頭二・消防手三〇)となっている。 (大門新・大門村・犬内村・百米木村・枇杷首村を含む)
昭和一四年四月に警防団と改められ、戦後二二年八月、警防団が廃止されて大消防団と改称し、同二九年 (一九五四)三月、町村合併によって大門町消防団第一分団となり今日に至っている。 分団は分団長以下四〇名を似 って組織されている。
公設前の消火器は中型竜吐水一台であったが、公設時には私設時代の大門・大川両組腕力ポンプ二台をそのまま 引継いだ。大正一四年七月にガソリンポンプを購入し、同時に三〇〇円で鉄骨望楼台を建設した望楼台は 一七年に太平洋戦争の金属回収によって供出した。昭和九年四月に自動車ポンプを購入し、同一九年三月に内地防衛のため徴発されたが、戦後にいたっても大阪府から返還されなかった。昭和二八年一二月に購入した常備車二台を合併の折、分団と本部兼用とした。同三九年一二月、新鋭車を購入した。同四五年一〇月に入替えがあ った。なお昭和三六年、同四七年、同五一年に地域無火災をうけている。

2.櫛田分団(第二分団)

櫛田村に消防組創設の動機となったのは大正天皇即位記念事業としてのであった。そのころ、第一次大戦 による好景気と消防思想が高まったことから、県内各地に消防組が相ついて設置されたのに刺激されたこともあって、大正四年(一九一五) 八月、私設「櫛田消防組」が創設された。 大門・水戸田 ・浅井に次いで四番目に設置されたわけである。
大正八年九月、公設「櫛田消防組」となった。戦時体制のもと昭和一四年四月、「 櫛田警防団」と改称し、銃後の守りに備えた。昭和二二年五月、 警防団が廃止されて同改称され、同年八月「櫛田消防団」と改称され、同二九年(一九五四)三月町村合併によって同年五月二九日、 大門町消防団第二分団として発足した。 分団組織は分団長以下三二名とな っている。
創設当時の消火器は、全国的に普及して乙号型腕力ポンプが設備されて昭和三年九月にガソリンポンプが購入された。 このポンプは同一九 年三月に内地防衛のため徴発されて大阪府に配属されたが、戦後に至っても返還されなかった。昭和二三年三月に大型消防車を購入し合併後の同三五年一二月と同五三年一〇月に大門町から入替えがあった。
昭和四年四月二九日、高さ七三尺(二二メートル) 県内屈指の鉄骨望楼台が建設されたが、同一七年、 供出した。同一一年五月、従来の半鐘にかえて警報 時報とをかねたサイレンとなった。 町村合併後の昭和三五年三月、同三九年、四二年、四八年には地域無火災表彰をうけている。
昭和九年(一九三四)七月一一日の庄川大洪水には被害の最も甚大な浅井地区に出動し救援本部を設けて活躍した。同三八年一月の豪雪にも全員出動し金沢鉄道管理局長より感謝状と金一封が贈られた。創設時は過渡期であり、頭には大物をという一の要望もあって、当時、ひげの村長として有名であった高田正弘村長が推されて初代組となった。

3.浅井分団(第三分団)射水市消防団/南部方面団/浅井分団

大正四年(一九一五)四月、私設「広上消防組」を創設したのが浅井消防組のはじまりであって、 大正一〇年(一九二〇)五月に公設「浅井消防組」となった。戦時体制のもと昭和一四年四月に「浅井警防団」と改められた。戦後、昭和二二年五月に警防団は廃止され、同年八月「浅井消防団」として新発足した。昭和二九年町村合併により同年五月大門町消防団第三分団となって今日に至っている。 分団組織は地域状況を考慮してとくに水防要因が置かれ、これを含めて四五名となっている。
創設当時の消火器は乙号腕力ポンプであったが、昭和二三年、自動車ポンプ購入、同二八年更新、合併後の昭和四五年一〇月一五日入替えされた。分団全地域が庄川流域とあって、創設以来たびたび水害に出動した。特に昭和九年七月の庄川大洪水で浅井地区の堤防が決壊し、大惨害をうけたときには団長以下全員一致協力、寝食を忘れてこれに対処し、復旧作業にも献身的な努力をしている。なお、町村合併後の昭和四〇年三月と五〇年三月に富山県から無火災表彰をうけている。

4.水戸田分団(第四分団)

水戸田は藩政時代の宿駅であり、また幕府の巡見上使宿であったため宿駅火消があったことと思われる。明治時代になって五〇余戸を焼失した明治三八年(一九〇五)五月二二日の大火などがあったので防火観念は一段と高く、大正二年(一九一三)六月には早くも「水戸田消防組」が創設されている。 大門町で二番目、旧大門町に次ぐもので、創設以来近隣の出火にも活躍している。
昭和一四年四月一日、戦時体制のもとで「水戸田警防団」と改め、戦後、二二年八月に警防団が廃止されて 「水戸田消防団」と改称した。昭和二九年五月に大門町消防団第四分団となり、今日に至っている。 分団長以下二五名によって組織されている。創設時の消火器は、県下の消防組がもっていた乙号腕力ポンプであった。昭和一七年自動車ポンプを購入し たが、戦争が激化した昭和一九年三月、内地防衛のために徴発され、大阪府に配属となった。戦後、大門・櫛田には返還されなかったが水戸田には返還されている。昭和二一年に更新され、町村合併後の昭和四六年九月、現在の消防自動車と入れかわった。 昭和四〇年三月、富山県から地域無火災表彰をうけている。

5.二口分団(第五分団)

近隣の村が組織され、大正六年(一九一七)、「二口消防組」が創設された。戦時体制下の昭和一四年四月、「二口警防団」と改称し、戦後の昭和二二年八月、警防団を解消して、「二ロ消防団」と改め、自治体消防団となった。昭和二九年三月の町村合併によって同年五月に大門団第五分団となり、今日に至っている。分団は分団長以下二五名をもって組織されている。
創設時の消火器は、当時、県内各地で使用されていた乙号型腕力ポンプであった。昭和二三年六月に自動車ポンプを購入して近代化した。 町村合併後の昭和四八年に現在の消防自動車と入替えられた。 昭和四〇年三月、同五〇年三月、地域無火災表彰を富山県からうけている。

6.私設消防組

自衛消防として最も完備していたのは櫛田校下の布目澤消防組であった。昭和三年一一月、御大典記念事業として創設され、腕力ポンプ・火見梯子・その他器具・服装に至るまで一切が公設に準じたものであった。 櫛田消防の補助として多の火災現場に出動して活躍している。 昭和三六年九月、部落に上水道が敷設され、消火栓が設置されたので、初期消火としての必要性が失われ、発足三〇余年の歴史を閉じた。(出典:大門町消防団のあゆみ)

メモ(内容が多く様々なことが分かります)

みなさんは大門町消防団を知っていますか?

では、またの機会に・・・さっ消防団行ってきます。

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